長妙寺縁起

◆ 長妙寺沿革

本堂

当山は今を去ること約四百年前に建立されました。寛永三年一月十八日(西暦1626年)のことです。

佐倉藩主、土井利勝は徳川四天王の一人として佐倉城主になると将軍家の一大事に備えて佐倉より行徳岸までの新道を開いたのが佐倉街道、またその名を成田街道と呼ばれた現在の国道296号線です。

それ以前は利根川印旛沼の水運を利用していたが成田街道が開通するに至り暫く陸路の交通が激しくなりそれに連れて江戸と成田の中間地、船橋や大和田の土地は途中の仮泊地として栄えていたことが、今なおその名残をとどめています。


この盛り行く街道の姿に着眼した信仰厚い、河野又衛門尉栄通公がここに一宇を建立しました。栄通公は日向の人で、その先祖は鎌倉時代かの元寇の役に登場する河野水軍の末裔です。

栄通公は、諸国見聞の途中、身延山久遠寺に詣でて日蓮聖人の霊跡参拝の案内を乞い、身延山より天受院日利上人が同道して全国各地の霊跡を巡り、安房清澄誕生寺を詣でてこの地に居を構え一堂を建立して、日利上人を迎えて開創されて、天受山長妙寺と称しました。

女人成仏の範を示されたことで有名な徳川家康の側室、御萬の方が下総の国飯高に開設された大講堂大檀林には全国より多くの人が集まりました。その人々の概ねは、江戸より成田街道を通って飯高に至る一泊二日の行程、その途中には広大な習志野の原(ウヌメガ原)の難所がありましたが、中間に位置する当山は格好の宿泊寺となり、一宿一飯の縁を結ばれた高僧碩徳は少なくありません。


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山主 中村 嘉孝の写真

◆ 山主経歴紹介

山主 中村 嘉孝

  • 昭和20年 長妙寺に生まれる
  • 昭和43年 立正大学仏教学部宗学科卒業
  • 昭和45年 日蓮宗大荒行堂初行成満
  • 昭和46年 日蓮宗大荒行堂再行成満
  • 昭和57年 長妙寺住職に就任

昭和57年の住職に就任後は本堂をはじめ、守護神堂、山門、庫裡、駐車場など諸堂をはじめとする寺院内の整備をすると共に、猷心院日康聖人より受け継がれる、ぢの呪いの祈祷の秘法を身につけ、今や全国各地はもとより、海外にいたるまで数千名の信者を持つ日蓮宗の誇る数少ない大験者であります。
また、ぢの呪い等でテレビ(日本テレビ・テレビ朝日)、ラジオ、雑誌などにも多数出演しています。


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